代表者あいさつ
デジタルワン設立までの経緯

私は、大学を出て16年間もサラリーマンをやっていました。
自分でも今考えれば驚きです!なんともったいない時間を過ごしたか、、、確かに学ぶことは多くありましたが、せめて半分の時間で学べたのではないか、、、と。
私が新卒で入社した当時の就職状況は、完全な買い手市場であり、新卒を大量合格させ厳しく鍛え残ったものを育ててゆく、そんな感じを受けました。
入社式の日は、大きなカバンに1週間分の衣類を詰めて入社式会場に行き、入社式が終了するとそのままバスで研修所に向かい、その日から約6ヶ月間に渡り新人研修を受けることになるわけです。
幸いにも、私の自宅は研修所から帰宅できる場所にあったので毎週土日は自宅に帰ることができましたが、全国から来ている同期の仲間たちは、ほとんどが帰宅することができず、6ヶ月近くも研修所の缶詰の日々を過ごすことになったわけです。
営業研修は、朝は6:00からマラソンとラジオ体操、朝食を取り9:00から夜の19:00くらいまで講義があり、その後は自己学習など翌朝に前日の講義内容に関するテストが行われるため、毎日夜中まで勉強しないと合格点である80点がとれないという日々が続きました。しかし、これが私のビジネスマンの基礎を作ってくれたと今でも感謝しています。
そんな中で6ヶ月間の地獄(?)の研修が終わり、営業として現場に出されましたが、とにかく必死でがんばりました。だから売れました。トップ営業マンとして会社からも大事にされるようになりました。ですが、この頃からか、あれっ?と思うことが多くなったように記憶しています。
実績=評価なはずなのに、いろいろと条件が設定されているようで、例えば、昇進するには過去6期(3年間)の評価でA評価が4個以上、つまり、3年間経たないと上の等級に上がれないなどという制度があることを知らされました。
それに、上がるとよっぽどのことがない限り降格しないという仕組みになっており、そこそこの年齢になっているがいろいろあり結果的に出世をあきらめた人たちは、私よりもはるかに高い給料をもらっていながら、適当に仕事をしていてもいいという環境であったのです。
それをおかしいとは思い変革しなきゃと強く思ってはいましたが、でも私には、当時、起業するなんて選択肢はまったく浮かびませんでした。
父親は公務員でしたので民間企業というものがどういうものか考えたこともなかったですし、ましてや起業するなんて考えもしなかった中で、そういう会社の仕組みやルールに反発し疑問を感じながらも、それでも同期で一番に出世したくて日々がんばっていたわけでした。

そんな中で、ある尊敬する営業の大先輩から、組合という会社組織とは別の組織で自分を活かしてみないかという誘いがあり、何となく言うに言えないストレスの毎日を脱するために、組合専従という道を2年間選ぶことになりました。
これは当時出世頭だった私にはそれを捨てる覚悟が必要でしたので、とても勇気が要りましたが、やはり、これも結果的に私の人生において最も有意義な期間のひとつとなりました。
会社という組織を改革するには、通常は、職制のルートを通じてでないと行えない、しかし、組合幹部の立場になれれば一気に会社幹部、しかも最低でも年2回は社長や役員たちとも直接交渉する機会を持てる、これは私にとって大変魅力でした。
現場でどんなに意義のあることを言っても何も変えることはできない、でもどんなにがんばっても上になるにはまだまだ多くの時間がかかる、その中で自分の会社への思いをストレートにぶつけることができる、そう思いました。
事実、この活動は、若干20代の私に、また、普通のサラリーマンでは得られるはずのない、「大企業の経営幹部」の姿を見せてくれましたし、その方たちと接する貴重な機会を得られました。
また同時に、組合専従いう立場は組合員からの組合費で生活しているいわゆるサービス業ですので、組合員のどなたとも平等に接するべきであり、その結果、職種を越えた組合員たちの悩みに触れることもでき、多様な価値観などをも感じることができたことは私の人生において大変大きなことでした。
それと、これは余談ですが、組合は前述の通り組合員から徴収した組合費で運営されており、専従人数に余裕はまったくなかったですから、当然ながらやるべきことも山のようにありました。
また、毎週のようにあちこちの現場へオルグ活動に行かなくてはならなかったので、平日も組合室に泊まり、夜や土日は出張で泊まりなど、後から考えればかなりのハードワークでしたが、そのやりがいは私にその苦労をまったく感じさせなかったですし、それを経験していたので自分で会社を立ち上げて毎日のように会社に寝泊りしていた時も何の違和感もなかったですね。(笑)

そんな2年間があっという間に過ぎ、私は現場に戻ることとなりました。元の職場にマネージャー「待遇」で戻りました。
「待遇」というのは、まだ2つ上の先輩にもマネージャー(任用係長)が誕生していなかったので、例のごとく、マネージャー職では戻ることができなかったのでしょう。ですが、当時の支店長は、私に2つの係をまかせてくれました。これは、その支店の9名のマネージャーの誰よりも多い部下を持つ立場でした。
勿論、その気持ちに心から感謝し、日々全力で仕事に取り組みました。そして、1年後、2つ上の先輩と同時に新任のマネージャーに任用されました。勿論同期で No1出世です。
とっても嬉しかったことをよく記憶しています。ひとつの目標が達成できた瞬間でした。
そして、そんな中で、2人のトップ営業を部下にもつことになりました。
1名は、入社以来事務部門に所属していたパワフルな若者であり、そのパワーをもてあまし気味だったようで、自ら営業へ配置転換を希望し最前線の私の元にきたのです。最初の半年はとても苦労したようですが、それでも配転者の中での新人王を獲得し、それ以降はずっとダントツのトップを取り続ける実績であり、もっとも手がかからない部下でした。
また、もう1名、これもダントツクラスの部下がいたものですから、当時の現場マネージャーとしては、黙っていても常に好成績でありましたが、そう楽はさせてくれません、「待遇」も含め3年半で現場から離されスタッフマネージャーに異動になり、白黒からカラー、コピー&FAXからプリンターへと大きく転換してゆく富士ゼロックスの先頭に立つことになったのです。
今思えば、ここから退職するまでの約4年間のスタッフマネージャー時代は、変革推進役として常に現場へ新しい施策を展開することにやりがいを感じ全力を尽くしていましたが、片や、変わろうとすることに対して大きな抵抗勢力の存在も同時に感じ続けていたことも確かであり、その軋轢との戦いもどんどん大きくなっていったことを感じていました。
まあ、いまから思えば自ら戦いを挑んでいたという感じですね(笑)、すいません、諸先輩方、この場をお借りしてお詫び申し上げます。
ですが、当時の私は、高橋俊介氏の「オトナの会社、コドモの会社」や柴田昌治氏の「なぜ会社は変われないのか?」を読み、坂本竜馬、上杉鷹山、などを読み直し、世の中の変化は早い、だからもっと早く変えないと負ける、世の中こんなスピードじゃない、守っていたら負ける、我々の未来がなくなる、なぜ大企業は早く動かない、このままではタイタニックと同じ、新たな時代に力を発揮できる人間をいち早く抜擢し代替わりし準備を進めないと大きな波に飲み込まれる、いままでの利子で無事に定年を迎えようと考えている人たちに任せていてはだめだ、一度落ちたら立ち直るのに時間がかかるし業績が悪化すれば下手すると自分たちでは意思決定できなくなる、俺たちの未来は・・・・なんて、そんな焦燥感を感じながら、どんどん突っ走って行きました、ははは。
その当時は、全国の営業事業部の中でダントツに若い営業推進課長の立場で、現場に対しての影響力はとても大きな存在でしたので、さぞかし会社も困っていたことと思います。間違っていたとは思いませんが、行動、発言、ちょっとやりすぎたなぁーと、この場をお借りしてお詫び申し上げます。(笑)

そんな悶々とした中で、上述の通り自ら動かないわけにはいかない心境だったものですから、自ら外部のビジネススクールを受験し、そして勢いで合格し(笑、とても知識レベルでは無理でしたので)、その授業料を出してくれと会社に交渉に行った際に、会社変革のための新たな研修プログラムである「シンボリック・リーダーズ・プログラム」という研修が開始していることを知りました。
これは、若手課長30人(×3年間=計100人)を対象にした幹部研修であり、それにチャレンジすることを決めたのは、まさにこの時期でした。
特に、前述しました高橋俊介氏が講師陣の一人でもあると聞かされたときは、どんなことをしても合格するという意気込みでした。
事実、各事業部から2名という厳しい関門でしたが、これを幸運にもパスし1年間の土日(+金もしくは月)をほぼすべて利用した泊まりがけの研修を主に慶応大学SFC大学院で受講したのがこの研修でした。日常の仕事をしながらのスクールでしたので、結構きつかったですね。
でも、入社時の研修以来、大変価値の高かった研修でした。いまでもそのスピリッツを忘れることなかれと机の横に卒業の盾を置いています。
ですが、ここでその後の私の人生が決まったと言っても過言ではない衝撃的な1年間を過ごしたわけです。
大学改革の父といわれている相磯名誉教授(当時、富士ゼロックス非常勤取締役)、花田教授、榊原教授、武藤(たけふじ)教授他、皆様大変著名な慶応大学大学院、一ツ橋大学大学院の先生方とのケーススタディ研究、ディスカッション、また、ゲストスピーカーの高橋俊介さん、インテリジェンス宇野社長(現 USENの宇野社長)、楽天の三木谷社長など、多くのベンチャー経営者やソニーなど企業内ベンチャー部門の方々などの毎週のように行われる講義&ディスカッション、ますます刺激を受け、俺は今まで何をやってきたんだ、新しい試みをどんどん取り入れなくてはいけない、と強く感じたと同時に、もうひとつのミッションである新規事業企画にもはまっていきました。
以下、続きのテーマとサマリー(あくまで予定)です。乞うご期待!?(笑)
● 本社で最後の抵抗!? なぜ私は超優良な大企業をやめたのか?自分でも振り返ってお話したいと思います。
● 壁紙ドットコム設立 会社を立ち上げるって本当に大変です。いかに意義のある(と思っている)事業でも利益が上がらないことにはどうにもなりません。未熟な経営者の苦労話を中心にお話します。ちょっと恥ずかしいですね。
● GMOインターネット役員時代 GMOインターネット(東証一部)の熊谷正寿CEOは本当に素晴らしい経営者です。もし経営者としての私にいい点があるとしたら、それは彼のおかげと言っても過言ではありません。そのエッセンスを盛り込みながら私が思う経営者論をお話したいですね。
● デジタルワン設立
これも大変でした。立ち上げに際しては、1年間1円も収入がなくても生きてゆけるように身ぎれいにし覚悟して立ち上げました。一息つけたのは、10月くらいになってからです。それもご支援いただいた皆様のおかげで すし、こんな私に声をかけてくださったお客様のおかげです。そして、何といってもわがスタッフたちです。
皆さんに感謝です。そんなお話をして行きたいと思います。
● そして、5年が経過して・・・ 今の私の心境とこれからの展望をお話したいです。
経歴
| 1984年4月 | 成城大学英文学科卒。
富士ゼロックス株式会社入社、新人王を皮切りに トップ営業として活躍。その後、営業マネージャー、営業推進課長、営業教育課長などの主要営業部門スタッフマネジャーを歴任し、本社にてインターネット営業戦略GMを担当。 また、同社在籍中に会社派遣にて慶応大学大学院(SFC)にて学ぶ。 |
|---|---|
| 2001年1月 | 世界初の著作権保護技術を活用したデジタルコンテンツ流通事業である壁紙ドットコム株式会社を設立、同社代表取締役社長に就任。 同年、同サービスがYahooにてルーキーオブザイヤーを受賞。 |
| 2002年3月 | 現社名:GMOインターネット株式会社(グローバルメディアオンライン株式会社(東証一部))の営業部門担当取締役に就任。 これまで培ってきた「収益を向上させるインターネットマーケティングノウハウ」と企業戦略を支援する「コンサルティング営業力」を生かした企業向けe販ソリューション事業を立上げ、顧客の事業戦略を支援し大きな成果を提供。 |
| 2005年1月 | デジタルワン株式会社設立、同社代表取締役社長に就任。 |
| 2005年4月 | 金沢工業大学大学院(工学研究科 ビジネスアーキテクト専攻)客員助教授就任。 |
人物像
| 出生年 | 1958年 |
|---|---|
| 血液型&星座 | O型(家族全員、親戚一同)、かに座 |
| こだわり | 「基本が大事」 |
| 趣味 | ゴルフ、走ること、体を鍛えること、ドラマ&映画鑑賞 |
| 特技 | サンドバック800発/3分 |
| 休日の過ごし方 | 仕事、趣味、家族(ペット含む) |
| 座右の銘 | Winners Never Quit!(あきらめない奴が勝つ!) |
| 心に残る本 | 竜馬がゆく(司馬遼太郎) |
| 尊敬する人物 | 坂本竜馬、上杉鷹山、小林陽太郎、熊谷正寿 |
| 現在の会社 &仕事の魅力と苦労 |
【魅力】 お客様の現状課題を知り、目的を達成するための戦略や施策を考え、当社がこれまで蓄積してきたノウハウをご提供する、そしてその結果、お客様の目的(収益向上)が果たされること、このことを経験できることが何よりの魅力であり喜び。それと、スタッフみんなが、優秀で、頑張り屋で、いい奴、ってこと。 【苦労】 日本中の企業様に私たちのことをよく知っていただけること。(まだまだ無名) |
| 明日を担う若者への メッセージ |
仕事は人を作る。売上規模の大小にかかわらず、高い給料・充実した福利厚生も確かに大事だが、さらに大事なことは、ビジョン、お客様に対する姿勢、提供しているノウハウ(サービス)の真価、そこで働く人たちだと思う。惚れこめる会社と仕事に人生を投資すべき。 |





